流觴曲水
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流觴曲水
青蓮の約束
青蓮:「剣塚の主様 親展。我ら三人は泰山の巓に出会い、日夜を忘れて語り合い、意気投合しきり。月の影に照らされ、闘詩論剣せし情景は、今も忘れられず。」
青蓮:「此度、一年前の約束の日が近付いており、ついては蘭渚山にある草堂にて細やかな酒宴を催したく、貴殿には是非訪ねていただき、旧交を温めたく存じます。」
私はふと、その文に手を添える。その文字は力強く、それでいて優雅だ。
署名には「青蓮」の二文字。
(剣塚の主様…?もしやこの者は剣魔の旧友なのだろうか?)
剣塚での一戦の後、私はかろうじて木剣を撃退したが、奴がいつまた戻ってくるかは分からない。
突然届いたこの招待状は、私に多くの疑念を抱かせた。
「青蓮?」
記憶の中でその名前を辿ったが、しかしそれらしい人物や出来事は浮かんでこない。
だが、この招待状で剣魔に触れられている以上、どんな危険が待ち受けていようと、誘いに乗るしかない。
早々と支度を済ませ、招待状に書かれていた約束の地、──蘭渚山の草堂へ向かって出発した。
剣塚を離れてからも、潜伏していた魍魎からの襲撃は絶えず続いた。
頭角を現す
青蓮:「青天 月有りて来のかた幾時ぞ。我 今 盃を停めて 一たび之に問わん。人 明月を攀(よ)じんとするも得(う)べからず。月行
却(かえ)って人と相(あ)い随う。」
遠くから透き通るような声が聞こえた。
無剣:そこで詩を吟じているのはどなたですか?
清々しい笑い声が聞こえたかと思うと、目の前に白い人影が現れた。
その者は私の問いに応じることなく、私を興味深く眺めた。
青蓮:蘭渚山を行き交う人は少ない。貴殿は一人道を急いでいるようだが、誰を尋ねてきたのだ?
無剣:私は...私は青蓮と呼ばる者を尋ねてここへ来ました。
青蓮:ほう?それは珍妙だ!貴殿とは初対面だと思うが、なぜ私の名を?
無剣:あなたがまさか……青蓮?
青蓮:まさに。貴殿は...
無剣:私は無剣。剣塚の主です。
私は袖口から招待状を取り出して青蓮に渡した。
彼は招待状を手にすると、目を細めて思いにふけった。
青蓮:私の記憶では、貴殿はあの時、私と詩を吟じ、月下で剣を交えた剣魔と、似ても似つかないな。
青蓮:もしかして、飲み過ぎて少し混乱していたのかもしれんな。
無剣:そうではありません。当時は...
私は過去の出来事を青蓮に詳しく話した...
彼は時に驚き、時に下を向き頷いていた。
青蓮:世の中には不遇なことが多いな。昔はよく旧友と酒を飲み交わしたが、今となっては会うことも無い。
しかし──
彼の目に微かな光が見えたかと思うと、突然、私に一歩近づいた。
青蓮:剣魔の後継者だというのであれば、剣術の造詣もあるのだろう?
まず手合せしてみないか?
袖が舞い上がると同時に彼の手に利剣が現れ、雄々しい剣気を纏って私に向かってきた──
文士の会
はっははは、類い稀なる剣術の使い手と手を合わせられるのは人生で最も愉快なことの一つだ!
彼は満足げな表情を浮かべ、私の実力を認めているようだ。
青蓮:昔、剣魔と詩を詠んだ時、詩に剣気が隠されていると言っていた。
あの時は私もまだ未熟であったので、その意味を理解出来なかった。
青蓮:今回蘭渚草堂に集まるのも、その部分を教えて欲しかったのだが、
年月は倏忽(シュッコツ)だな。過ぎた時は戻らない。
青蓮はどことなく残念そうに頭を振り、横へ一歩退いた。
私の前に、曲がりくねった山道が開いた。
青蓮:蘭渚草堂はこの道の突き当りにある。
少し経てば月が出てくるだろう、さすれば、詩を吟じる良い時間になる。
私は青蓮の後に付き、山道の奥へと入っていった──
夜が深まり、月の影が古渓の上で漂う。
玉壺が一口、古渓の流れに浮かんでいる。壺からはかぐわしい酒の香りが漂っている。
長髪の少年が一人、その玉壺の隣に立ち、何かを考えるように見つめている。
私たちに向けられたその目には、なにか悲哀が宿っているかのように感じられた。
工部:剣魔が来たのですか?
…おや?こちらの方は?
青蓮:工部、剣魔はすでに遠くに逝ってしまったようだ…
工部:なっ?!
何ですって?今、何て...剣魔が…ゴホゴホ…
工部:け...剣魔ほどの武功を持つ者が、この世を去ったですと?!
私は剣魔と五剣の境の事情を全て工部に話した。
工部:まさか、泰山で別れたのが最後…永遠に、会えなくなるなんて!
青蓮:残念なことだ。もはや何を言っても、この気持ちが晴れることは無い。
工部:無剣、もし魍魎駆逐など僕たちに手伝えることがあれば、教えてください。
僕たちも出来る限りのことをして、故人を偲びたいと思います。
無剣:お二人に感謝します。
無剣:主は大らかなお方です。決して自らの死で残された者が悲しむことを望んでいないでしょう。
無剣:特に工部、もしあなたがそれで体を壊したりなんかしたら、どれだけ私が責められることか。
青蓮:そうだそうだ、まさか君の墓標に「剣魔の死に耐えられず悲しみの果てに死んだ」と書くわけにもいかないだろう?
工部:何を失礼な!
はあ、この話はやめにしましょう。
青蓮:それでいい!では始めようか。
無剣、君が「蘭渚集」の序をしたためるのだ。
無剣:「蘭渚集」の序をしたためる?!
青蓮:なんだ。剣魔は貴殿に伝えてないのか?
無剣:別に……
青蓮:だとすると、曲水の宴も知らない、そうだな?
無剣:うーん、耳にしたことくらいはありますけど...
工部:無剣、曲水の宴は、文人が集まった時にやる遊びの一つです。
工部:曲がりくねる小川を囲んで座り、軽い盃を上流から流す。
盃が自分の前に来るときに酒を取って即興の詩を作る。
これが曲水の宴です。
無剣:では、序をしたためるというのは?
工部:作られた詩を取りまとめたものが「蘭渚集」です。
そして君が最初にこの詩集の成り立ちを紹介、説明する。
これが序をしたためる、ということです。
青蓮:緊張しなくても良い。序は何時何処で誰が何の為に集まったのかを簡単に書くだけだ。
体裁や規則に拘ることもない。
無剣:ぐっ...分かりました。
それでは...
私は脳裏でそれに当てはまる文章を考え始めた。
その時、突然激しい痛みに襲われた!
思い浮かんだ言葉がそのまま墨の化物となり、私の思考を邪魔しようとしている。
現れた危機
無剣:聳える山に険しき巓、茂る林に細竹が芽吹き、清渓の流れを湛える。そこに左右を見渡せば、みな曲水の宴に次いで座す。
無剣:仰いでは宇宙の大を観(み)、俯しては品類の盛んなるを察す。目を遊ばしめ懐(おも)ひを騁(は)する所以(ゆえん)にして、以て視聴の娯しみを極むるに足れり。信(まこと)に楽しむべきなり。」
脳裏に現れた墨の化物を退け、やっとの思いで序の最後の一句を吐き出した。
青蓮:あっははは、良い出来だ!極簡潔、首尾一貫!
工部:ああ、清々質素で、飾り気が無くて良いですね。
無剣:お二人とも買いかぶり過ぎですよ。剣塚で休養していた時にはいろんな書物を読んでいましたし、そこで覚えたものに少し手を加えただけです。
少し落ち着いたものの、先ほどの光景を思い出すと、また落ち着かなくなった。
墨が化物になって思考を妨げることなんて、今回が初めてだった。
それを口に出そうとしたのだが、青蓮と工部はもう玉壺に美酒を注いでいた。
水に浮かべた玉壺は僅かに揺れながら渓流に沿って下っていく。
青蓮:っははは、我々の曲水の宴の最初の詩、何を題目としようか?
工部:では、この地の風景はいかがですか?
青蓮:ふむ、今夜は星の煌めきが素晴らしい。では、星月を題目としようではないか?
工部:情景は満たしています。僕もそれが良いと思います。
無剣:む……星月を題目にするの?だったら……
青蓮は眉間にシワを寄せるの私を見ると、軽く肩をたたいた。口元が微かに緩み、含み笑いをしているようだ。
青蓮:今夜ここに集い、曲水の宴を開いたが、あくまでも遊びだ!
詩は星や月の風景に関係したものを、酒一口で詩一句詠み、二句対となせば良い。あまり緊張するな。
無剣:それはいいですね!
工部:では、青蓮の言う通りにしましょう。
青蓮と工部は互いに微笑み、手前の唐紙を一瞥すると、墨は飛沫をあげ、筆は飛ぶように走った。
(星月……何を書けばいいのか?)
私は心を静めて考え込んだ。頭の中の一字一句が形を変え、詩へと姿を成していく。
無剣:上の句は、雲河浮月鏡...
無剣:次の句は、星……うっ、痛っ!
墨が化した妖物が脳内に押しかけて、考えたばかりの言葉が粉々になってしまった──
危険の連鎖
無剣:ええ……大丈夫です。ちょっとぼんやりしてしまって、少し頭痛がしただけです。
青蓮:ほう?まさか初っ端から躓いているのか!
ははは…工部、酒は君の前にあるぞ。できたのか?
工部は小さく頷いて、筆を持つ手を止めた。
工部:では、僕から失礼します。
工部:星垂れて平野広く、月湧いて大江流る。
青蓮:あっははは!工部は謙遜をしているな。
この対句は巧みで整っており、気象広大、正に佳作だな!
青蓮:しかし、行間に悲しみと寂しさが垣間見れる。
工部:僕の出自を知らないわけでは無いでしょう。自然と万物を見る色合いも決まってくるのです。
工部:青蓮、君の詩は出来たのですか?
青蓮は手に持つ酒を一気に飲み干した。
唐紙を投げると、そこから色彩豊かな詩句が躍り出た。
青蓮:明月天山を出(いず)る、雲海の間を蒼茫(そうぼう)とす。
工部:文才美しく、珠玉で綴ったような詩ですね!
青蓮:詩で情を語ることに良し悪しもなかろう。
我ら三人が楽しければいいのだ!
二人は唐紙を横に置き、期待の視線をこちらに向けてくる。
工部:無剣、君の番です。
無剣:月鏡(げっきょう)雲河(うんが)に浮かび、星帯(ほしおび)銀光(ぎんこう)を灯す。
工部:この一句は巧妙ですね。しかし、もし「星帯」を「星漢」とした方がより情景に合うかもしれませんね!
月鏡(げっきょう)雲河(うんが)に浮かび、星漢(せいかん)銀光(ぎんこう)を灯す。
無剣:なるほど、勉強になったわ。
青蓮:工部は真面目だな。
そんな一字一句拘らんでも良いじゃないか!
工部:詩を作るなら、文字をよく咀嚼し、よく推敲するべきでしょう……
すべての人が君みたいに、意の赴くままに詠んでも、素晴らしいものが出来る訳ではありません。
青蓮:はははは!よし!もう一度だ!題目は何にする?
工部:例えば……国家と天下はいかがでしょう?
青蓮:工部、その憂国憂民、天下を憂う所は変わらないな。
良かろう!それを題目としようか。
工部:無剣貴方はどうですか?
二人の尋ねるような視線に対し、私はうなずいて返事をした。
国家、天下に関わる言葉が思いつかないでいると、また目の前が真っ暗になり、あの墨の化物たち頭の中に現れた!
うごめく影
頭の中で乱れ飛ぶ字句を、なんとか一つにまとめる…。
青蓮:おや…徳利が一周して、ちょうどお前の所に落ち着いたようだな。
どうだ、出来たか?
私はしばらく言葉を吟味し、ゆっくりと詩を詠みあげた。
無剣:剣影(けんえい)刀光(とうこう)鹿を逐し、寒天(かんてん)碧水(へきすい)帰途を照らす。
工部:感情と風景が絡み合い、境遇を映し出しています。素晴らしいですね!
青蓮:先ほど顔色が悪かったのは、この詩を作り出す為だったのだな。
無剣お前、そんなに緊張するなと言ったであろう。
無剣:いえ、そういうわけでは……だた少し妙だと思っただけです。
頭の中に墨が飛び散り、浮かんだ良い字句を隠そうとしているようでして…。
お二人は大丈夫でしょうか?
工部と青蓮は戸惑いながら首を横に振り、それが私をますます不安にさせた。
(まさかここには何か妖怪でも潜んでいるのか。私の中にだけ現れ、二人は何もないなんて……。)
工部:もし気分が優れないのでしたら、少し休みましょうか……ゴホッゴホッ…
青蓮:工部、君の方が休んだ方が良いかもしれないな。
まあ良い、酒を取ってくる、少し休んでおれ。
青蓮は起き上がって水面に浮かぶ徳利を取り、フラフラした足取りで向こうへ歩いて行った。
工部は彼の後ろ姿を見つめており、その目は微笑んでいるように見える。
無剣:彼を慕っているのですね。
工部:この世にあれほどの才能を持った人が何人いるでしょう。彼の洒脱な風格、才能を褒め称えない人はいません。
彼は僕のそばにいますが、遥か遠い存在に思えます。
工部:日頃酒を飲み、幻想の中に生き、趣の赴くままに物事に接し、些細なことを気にしない。
あの人自身が詩のようで、見ているこちらも闊達になります。
工部:これほどの奇才と巡り会えたことは、この工部の人生最大の幸運です。
工部:それに引き換え、僕は……ゴホゴホ……ゴホゴホゴホッ
工部は目を垂れて、かすかにため息をついた。
私たちが話しているその時、急に山頂で狂風が吹き荒れた。
竹の葉が舞い上がり、青蓮の唐紙も風に乗って空へ飛ばされていった──。
工部:青蓮の詩が!
工部は立ち上がり、風に舞う唐紙に懸命に手を伸ばす。
しかし弱ったその体ではそれも叶わず、よろめいて咳をつく……。
無剣:工部!気をつけて、私が追います!
私は急ぎ立ち上がり、舞い上がった唐紙を追いかけながら、暗い影がゆらめく竹林に入った。
身を返すと青蓮と工部の姿はもう見えなくなっていた。空を舞っていた唐紙がようやく私の前に落ちる。
しかしその墨の文字だけが、空へと散っていった!
これは…さっき青蓮は確かにこの唐紙に詩を書いていた……
この紙は脇におかれていたけど、絶対に何か書いていたはず!
驚いた私が顔を上げると、そこには青蓮を思わせる黒い影が見えた。
無剣:せ……青蓮?!
その黒い影は何も答えずに、凄まじい殺気で襲いかかってきた──
疑心暗鬼
(これは……まさか私の錯覚?
しかしあの頭に中に現れた墨の化物は一体……)
釈然としないまま、私は唐紙を拾い、竹林から歩き出た。
青蓮:早く来い!
新しい老酒を持ってきたのだ。これは美味い!──ん?
青蓮:無剣何故そんな白い顔をしている?何かあったのか?
青蓮の心配そうな顔を見て、私は言葉を呑み込んだ。
これまでのことは錯覚なのか?青蓮や工部との関係は?
……何も明らかになっていない。
工部:何かございましたら、僕たちに話してくださいね。
無剣:実は……先ほど見覚えのある人影を見かけたのですが、
……青蓮が酒を取りに行った以外、お二人はここを離れてはいませんでしたか?
無剣:青蓮と工部は困惑した表情を浮かべた。そしてお互いの目を合わせ、首を横に振った。
無剣:ではきっと私の見間違えですね。
大丈夫です、続けましょう。
工部:であれば……良いのですが。次は青蓮の番ですよ。
青蓮は笑いながら袖を振り、手前の唐紙を開いた。
青蓮:秦皇(しんおう)六合(ろくごう)を払う、何(か)の雄を虎視する哉。
工部:青蓮の詩は、本当に斬新なものばかりですね!
工部:筆落ちて風雨(ふうう)を驚かし、詩を成して鬼神を泣かす。
青蓮:はっはは!天下国家の詩に於いては、工部の方が上手いな!
さあもう一句!
工部は少し微笑み、足元に積まれた唐紙の中から、一枚を拾い上げた。
工部:國家の成敗(せいばい)吾(われ)敢えてせず、腥腐(しょうふ)に難色し、楓香(ふうか)をともす。
無剣:青蓮はしばらく考え込み、納得した表情で頷いた。
青蓮:国家を心に抱き、情義を重んじる。まさに工部の詩だな。
工部:あっはは、ありがとうございます、青蓮。次の題目はーー
工部:無剣、君が次の題目を決めるのはどうですか?
無剣:私?では……
私はしばらく考えたが、目の前に映る二人の勇壮な姿を見ていると、「抱負」という二文字を思い浮かんだ。
無剣:題目は「抱負」にします……いかがでしょう?
青蓮:面白い!そうしよう!
工部:抱負……この題目、これはなかなか手応えがありますね。
二人は少し考えると、すぐに筆を揮った 。
傍らには唐紙がまた積み上がる……。
私の頭に浮かんだ字句が、またもや墨の化物となり襲ってくる──
魔に堕ちる
無剣:青蓮!工部!やはり異常です……
恐らくこの蘭渚山には、私達三人以外にも何者かがいるようです。
私は大きな声で叫んだ。しかし二人には聞こえていない 。
彼らはこちらで起こったことを気にも留めていないようだ。
私が立ち上がったその時、急に狂風が吹き荒れ、一瞬で冷たい空気が蘭渚山を覆った。
青蓮と工部は創作に耽っているようで、二人は眉をひそめたり、大笑いしたりして、手に持つ筆は止まる気配を見せない。
二人の足元に捨てられた没案もますます積みあがる……
風が暴れ、唐紙を空に舞い上げたが、その紙面からは少しずつ文字が消えていっている!
散った墨が徐々に集まり、大きな旋風と化した。
やがてそれは二つの巨大な黒い影と化し、青蓮と工部の背後にぼんやりと漂いはじめた!
潑墨・青蓮:書け…書け!
墨骨・工部:書け…書け!
没案は次々と空に舞い、まだ乾いていない墨の文字は、瞬く間に黒い影へと吸い込まれるーー
無剣:この黒い影はきっと私が竹林で出会ったものと同じ!
墨の化物とも、きっと関係がある。
空いっぱいの唐紙が舞い落ち、それが二人と私を隔てた。
潑墨・青蓮:気に入らない…気に入らない!書け…書け!
墨骨・工部:気に入らない…気に入らない!書け…書け!
無剣:まずい!二人の意識があの影に乗っ取られたみたい!
はやく何とかしないと大変なことになる。!
私は目の前の霧をかき分け、二人の背後にいる黒い影に向かった!
没案の辞
工部:ゴホゴホ…どうやら、少しボーっとしていたようです…
二人はようやく意識を取り戻し、顔を見合わせた。
倒された墨の化物は随分小さくなったが、それでもまだ足掻いており、没案たる紙面の墨を吸い取ろうとしている。
工部:これは…先ほど書いた詩が、全て消えてしまった?
青蓮:なに!?まさか飲み過ぎて、目が回っているのか?!
無剣:そうではありません。
この墨の化物がどこから来たのかは分かりませんが、お二人が一生懸命に書いていた時、ずっとその背後につきまとっていたようです……。
潑墨・青蓮:ふん……お前たち……
お前たちは贅沢な人たちだ……
墨骨・工部:君たちからすれば、我々はただの無価値な没案。丸めて捨てられる紙に過ぎない。
潑墨・青蓮:ただ……ただお前たちに選ばれた言葉だけが人に伝わり、我々は冷遇される!
墨骨・工部:なぜ!なぜ同じように君たちが詠んだ詩なのに、こうも境遇が違うのだ?!
潑墨・青蓮:書くのが好きなのだろう!
もっと書け!書くんだ!
墨骨・工部:最後に君たちが選ぶのは……
私たちだけだ……私たちだけ!
二人の墨妖は懸命にもがき、青蓮と工部の前へ躍り出た。
工部:没案……私の没案?
僕が重視しなかった詩の言葉たちが……ゴホゴホッ……!
驚いていた彼の表情は、次第に悲しみを帯びていった。
工部:僕が悪かった!世を漂い、志を果たせぬ思いをしてきた君たちの気持ち、
身に沁みるほどわかる!
工部:僕…工部は、一人で生きてきた。戦場を駆ける志はあっても、体は付いて来れぬ。
工部:天下国家を憂うしかできず、何も為せていない。
抱負だけあっても、力を発揮する場所を見つけられなかった。
工部はそう言い、よろめきながら黒い影のもとへ近づいて行った。黒い影に呑まれるつもりのようだ──。
青蓮:工部、やめろ!
青蓮は一歩踏み出し、憔悴した工部を引き返させた。
青蓮:工部、宝剣(ほうけん)は終わりに託すのが難く、金囊(きんのう)は求めるのは易しからず。
何故頑なに分かろうとしない?
青蓮:これらの没案が無ければ、どこから素晴らしい珠玉のような詩ができるというのだ?
人生を世に受けながら、何故このような没案に、足を引っ張られるのか?!
剣光一閃──青蓮の言葉とともに、目の前の黒い影は散っていった。
青蓮:長歌(ちょうか)万里の気は虹を呑み、意気方遒(ほうしゅう)で墨風を飲む!
青蓮:詩の中に剣意あり──ここに来てその真意を悟れた。
ははは!故人は去ってしまったが、剣術を研鑽する無人の道を指し示してくれたのだな。
青蓮:心中に感じる所、情を詩に寄せ、諸々を剣に訴えれば、敵を破らん!
その言葉の一言一句は力強く、手に持つ剣は切れ味を増している。青蓮は相手を圧倒していった。
工部:僕は…僕は…
無剣:工部、この墨妖たちは人の心を惑わし、その体を乗っ取ってしまう。耳を貸してはいけない!
工部:ええ、彼らに対して隠された気持ちを吐露してしまった故に…
工部:僕も青蓮のように洒脱であれば良かったのです…少し…そう…ちょっとでも青蓮のようであれば……
青蓮:工部、手を貸してくれ!
工部:僕?しかし僕は武術なんて……
青蓮:私のために「広陵散」を弾いてくれれば良い!
青蓮は天を仰いで笑うと、再び剣を手にして墨妖に向かっていった。
工部は心を落ち着かせ、琴に指を走らせる。その音色が勢いよく響く。
二人の姿を見た私も奮い上がり、剣気で墨妖たちへ切り込んでいく──
家国天下
青蓮の剣によって、彼らは真っ暗な煙となり四散した。
そして空を舞っていた唐紙も、少しずつ地面に舞い落ちてきた。
墨妖たちが消えたその刹那、消えていた文字が再び唐紙に浮かんできた。
万丈の豪気、囀る悲しみ、
全てが文字へ詩へと戻っていった。
青蓮:ふっ、手こずったが、何とか終わったな。
工部が指を止めると、琴の音も止まった。
この天地の間に残るのは、揺らめく竹の影と、流れる渓流だけ。
工部:ゴホゴホ…思いもよりませんでした。没案があのような気持ちを持っていたとは。
無剣:恐らくこの世の万物は、悲しみを持ち合わせているのでしょう。
青蓮は頷き、散った唐紙の欠片を眺めている。
彼の目は憂いの表情を見せたが、それはすぐに消えた。
工部:さて、これでは、曲水の宴の気分ではありませんね。
青蓮:であれば、今宵はお開きにして、来年また集うか。
私も工部も頷いた。
青蓮:長風(ちょうふう)浪を破るに必ず時あり、直ちに雲帆(うんぱん)を掛けて滄海(そうかい)を渡らん!
青蓮:無剣、お前にこの詩を贈ろう。
先ほどのお前の課題である「抱負」にも通ずる。
工部:この沈んだ世の中では、魍魎が徘徊し、人心が失われています。
僕の命が終わるまでに、抱負を抱けるような機会に、また巡り合えるかどうかわかりません。
工部:安(いず)くんぞ得ん広廈千万間(こうかせんまんげん)、
大いに天下の寒士(かんし)を庇いて倶(とも)に歓顔(かんがん)せん。
工部:無剣、君にこの願いの詩を送ります。
もし叶えることが出来れば、僕の人生も意味あるものとなるでしょう。
二人の目は悠々たる光を宿し、その口ずさむ詩は力強く、そして心地よい。
青蓮:無剣お前、もし何か手助けが必要なら、何時でも我ら二人を尋ねるが良い。
工部:その時は、僕らは、きっと、力になります!
心が暖かくなった私は、二人にお辞儀をした。
無剣:蒼穹(そうきゅう)にて剣を御して五境を平き、丹心(たんしん)と碧血(へきち)を春秋に任せる!
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